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清泉メッセージ

201503.25

No50「『ありのままの自分』が受けいられるとしたら」

IMG_3401.JPG「ありのままの自分」という言葉があります。あの「アナ雪」でも、確かに「レリゴー」は、「ありのままで」と訳されていました。しかし”let it go”という英語は、本来「放っといてくれ」との意味です。それを敢えて「ありのままで」と訳し、MayJ.らに歌わせたから、ヒットしたのです。

私はこの1月で年齢が54になります。自らの死のことを、この頃、よく考えます。そして夜、起きて、怖くなることがあります。ひょっとしたら病的な状態かもしれません。それを私は否定はしない。ただ、たとえば、私より年齢の上の先生方に伺ってみたいのです。ご自分の死と、どう折り合いをつけようとされているのか。いや、年齢を経ないと、死を考えないという訳ではないと思う。人は、自分の死を考える。何かのきっかけで。そして死だけではない。何かの折りに、自分の不完全さが、欠点が、弱さが見えてくる。その中で身体も弱り、病気にもなり、一人、死んでいく。これは恐ろしいことです。だから私はそう簡単には、「ありのままの自分」を好きになる、とは言えない。そしてこの「ありのままの自分」だから、価値があるとも、簡単には言えないのです。

生徒の皆さんはご存じないでしょうが、今年度はずっと職員研修として、高名なある神父様 ―小高神父様― からご講演を頂いています。その方のお話から、心燃え立つ聖書の箇所を、改めて示されました。それは旧約聖書のイザヤ書53章です。そこには、「苦難の僕」と呼ばれている、一人の奴隷、一人の男の姿が描かれている。

その一人の男は、我々の「見るべき面影はなく」、「好ましい」姿をしていない。「軽蔑され」「人々に見捨てられ」ているのだ。我々は思ったのです。あいつが、あのようなけがらわしい姿をしているのは、あいつが悪いからだ。しかし違うというのです。神は、この男に、私達の全てを、身代わりとして、負わせようとされたという。

今回、このイザヤ書53章を読んで、心惹かれたのは、10節、11節です。
「彼は、子孫が末永く続くのを見る。…彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」。

この「子孫」とは、私達のことでしょう。何千年前の聖書の言葉が今読まれているということは、この「子孫」が、現在の私達であることを意味する。そして、この「彼」とは、私達への「プレゼント」、イエス・キリストのことです。この「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」。私達の救いをご覧になられてであります。

私には、様々な課題があります。学校、家庭において。しかし今思う。私の最後の課題とは、この「彼」と、どう向き合うのかということです。この「ありのままの自分」が、この方に受け入れられるとしたら、ひょっとしたら、私が死に赴く時にも、心安らかであるかもしれない。私はこの方に賭けてみたい。

皆様の上に、受験のさなかにある高3生の上に、この「彼」の祝福が豊かにありますようにと、祈るものであります。

    (2015年1月24日放送朝礼より、写真と本文とは関係がありません)

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