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清泉メッセージ

201503.25

No51「どんな時も共にいてくださる神」

001.jpg先日クリスマスの集いも終わり、本校においてはクリスマスが祝われました。今日はクリスマスの意味について考えてみたいと思います。キリスト教では、神が人となられたことを信じ、そのことをクリスマスに祝います。神が人となられた。そこに、どんな意味があるのでしょう。

長崎の教会の古巣神父という方が書かれた『かげぼうし』という文章を紹介したいと思います。急性白血病で天に召されたゆたか君という、当時7歳の少年のお話です。

『ゆたか君は、無邪気で、お母さんと一緒によく祈る子でした。それでも病魔は暴れまわり、ゆたか君の髪の毛は抜け落ちていきました。あれは、白血球を輸血した翌日のことでした。拒絶反応の異常な高熱で、目じりからも鼻からもうっすら出血したゆたか君は、もうろうとした意識の中で私に問いかけてきたのです。「ねぇ、イエス様はどうして人間になったの?」7歳の子がキリスト教の核心、クリスマスの本当の意味を迫ってきたのです。うろたえました。乾いたタオルを力いっぱい絞る思いで言葉を探しました。でも、何も出てきませんでした。死と向き合った人間の前で、机上の教えほど惨めなものはありません。その三週間後の夕日の沈むころ、天使たちはそっとゆたか君を天に連れて帰りました。泣きながらゆたか君の病室を片付けていたお母さんは、枕の下から四つ折りの紙切れを見つけました。

「ぼくののどが痛いとき  あの子ののども痛み
ぼくが夜目をさましてセキをするとき  あの子もいっしょにセキをする 
ぼくがお母さんにしかられて泣くとき  あの子もいっしょに泣いている 
夕日にうつるかげぼうしのように  あの子はいつもぼくといっしょだ」 

エンピツで書かれたゆたか君の書き置きでした。

痛みと不安と寂しさの中で、ゆたか君はあの質問の答えを見つけていたのです。フランスのマチルド・ロワという白血病の女の子が残した詩を、一度だけ読んで聞かせたことがありました。いつの間にか、ゆたか君はその詩を自分に置き換えて生きていたのです。
どんな時にも、「ぼくといっしょに生きるために人間になったイエスさま」、このお方が、ゆたか君のかげぼうしになっていたのです。』

クリスマスまであと数日です。神が人となられたこと、そしてその神は、どんな時も共にいてくださることに感謝し、私達自身も他者に寄り添えると良いですね。

(2014年12月20日放送朝礼より、写真と本文とは関係がありません)

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