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校長講話

201703.04

校長講話_72「2016年度高校卒業式式辞 『困難な時に、希望は生まれる』」

DSC05555.JPG 日に日に、陽の光が力強さを増し、自然のたくましい息吹を感じるこの春の日に、本日このように卒業式を迎えることが出来ることを心から感謝致します。

 高校3年生の皆さん、卒業おめでとうございます。皆さんは、この長野清泉女学院で、3年間あるいは6年間のかけがえのない時間を過ごしました。皆さんが、様々なものと出会い、友と体験を分かち合い、学業を修めてこの学院を巣立って行くことは、私たちにとって大きな喜びであります。

 保護者の皆さま、本日は誠におめでとうございます。皆さまの暖かな支えがあってこそ、生徒たちは本日を迎えることが出来ました。この3年間、6年間、本校と思いを共にして下さったことに心から感謝申し上げます。

 ご来賓の皆さまにはいつも本校を様々な場で支えて頂き、また本日はご多忙の中、卒業式にご臨席をたまわりましたことに感謝申し上げます。

 さて、これから3つのことをお話しします。その3つの話にはこれから皆さんが社会で生きていく上で、是非心に留めてほしい共通の事柄があります。その共通するものとは一体何か、考えながら聞いてもらえれば嬉しいです。

 では、まず一つ目の話です。今年の1月に芥川賞を受賞した山下澄人さんは、北海道にあった俳優養成所、富良野塾の2期生であることが、話題となりました。受賞作、『しんせかい』は、山下さんの富良野塾での体験がモチーフになっています。この富良野塾を26年に渡って主宰したのは、脚本家の倉本聰です。卒業生の皆さんには2月に倉本聰さんについてお話をしました。倉本さんは今年82歳になる脚本家で、生徒の皆さんよりはむしろ保護者の皆さまのほうがよくご存知かもしれません。倉本聰は富良野に居を定めて、40年、まさに北の大地で人々の記憶に残るドラマを書き続けていますが、北海道に移り住んだのは一つの挫折がきっかけでした。NHKの大河ドラマの脚本を担当するという、大きな仕事で、トラブルが発生し、脚本を途中で降りてしまったのです。そのことはマスコミでもさかんに取り上げられ、倉本聰はまさに東京から逃げるようにして北海道にやってきます。もう脚本家として仕事をしていくことはあきらめなくてはならないと思い、全く別の道を歩こうとします。トラブルがもとで、多くの人が彼から離れていってしまいます。しかし、そんな中で二人の人だけが彼のことを本気で心配してくれました。その二人と話をする中で、倉本さんは新しい希望を見い出し、北海道でしか作ることの出来ないドラマを、今まで誰も作ったことのないドラマを、作り始めるのです。そして、富良野で若者と向き合う富良野塾を始めます。富良野塾も、富良野でだからこそ出来た全く新しい俳優養成の試みでした。これが一つ目のお話しです。

 次に二つ目を話します。昨年11月12日には、東日本大震災の被災地、大船渡より山浦玄嗣先生をお招きして、全校でお話を伺いました。長野清泉が、2014年の夏から大船渡でボランティアをさせて頂くようになって、山浦先生とのご縁が生まれました。皆さんは、山浦先生のお話しは勿論、話す時のご様子、話し方、まなざしを覚えていることと思います。先生は60歳からギリシャ語を独学で学び、新約聖書を故郷のケセン地方の方言で訳すというお仕事をなさいました。私も昨年の講演の後、先生が訳された福音書を毎日少しずつ読んでいますが、わかりやすいだけではなく、先生の人柄が伝わってくるような日本語で、読むのが楽しみであります。昨年お会いしたあるミッションスクールの校長先生をしておられるシスターは、今は山浦先生の訳した聖書を主に読んでいるとおっしゃっていました。

 昨年のご講演の中で先生は次のことをお話しになりました。

小さい頃、故郷の岩手県ケセン地方では、クリスチャンの家庭は山浦先生のお家一軒だけだったそうです。クリスチャン家庭に育った先生は幼児洗礼を受け、子どもの頃から聖書にも慣れ親しみます。ところが、ふるさとではクリスチャンが珍しく、そのことでいじめられます。山浦少年はしばしば一人で川のほとりや、林の中で時を過ごしました。その時、彼はいつかこのふるさとの人々にイエス・キリストの素晴らしさを伝えたいという夢を持つようになります。クリスチャンであることが原因でいじめられたのですが、その悲しい体験を自分の中で受けとめ、前向きな夢を持つようになったのです。そして、社会人になり、医師としてのお仕事をしながら、故郷の方言、ケセン語の研究を始めます。ケセン語の入門書、ケセン語の辞書を作り、そしてついに、60歳を過ぎてから子供の頃からの夢を実現するために、ギリシャ語を学び、新約聖書をケセン語に翻訳したのです。

 考えておきたいことは、もし山浦先生が、幼い時にクリスチャンという理由でいじめられなかったら、そういう辛い体験を持たなかったら、もしかしたらふるさとの人々にイエス・キリストのことを伝えようという思いは起こらなかったかもしれない、ケセン語訳の新約聖書も生まれなかったかもしれない、ということです。小さい頃の苦い体験がケセン語訳の聖書を生み、その聖書は、ケセン地方だけでなく、日本中で読まれるようになりました。

 最後、三つ目のお話です。長野清泉の創立の頃を振り返ってみたいと思います。ご存知のように1934年の11月にローマから聖心侍女修道会の4人のシスターが日本にやってきます。日本でカトリックの教育活動をするためです。1934年の日本は平和と言える時代ではありませんでした。少し前には満州事変が起こり、日本はいわゆる「十五年戦争」という、広島、長崎の原爆投下へとつながる戦争の時代に入って行きます。しばらくして日中戦争が、またヨーロッパで第二次世界大戦が勃発します。シスター方が来日し、教育活動を始めようとしたのはそのような時代であったのです。そうした時代に学校を始めるには、多くの困難があったに違いありません。しかし、来日した翌年には東京の麻布に清泉寮学院を開きます。しかし、国内では軍国熱がたかまり、外国人の運営する学校は様々な制約を受けるようになっていきます。そして、1941年、日本とアメリカとの戦争、太平洋戦争が始まります。1944年には東京在住の外国人に対する疎開勧告を受け、シスター方はここ長野県に疎開します。せっかく開校した麻布の清泉寮学院は1945年3月10日の東京大空襲で焼けてしまいます。シスター方は1945年の8月15日の終戦を疎開先の野沢温泉で迎えました。
 その時のシスターたちの心境はどのようであったでしょう。東京の学校は焼け、戦争が終わったと思ったら、その年の10月に一人のシスターがお亡くなりになります。このことは長野にきてからの最大の悲しみであったといいます。1945年はシスター方にとって大変な苦難の年でした。しかし、そのような苦難の時に、長野で学校を開くという希望を持ち始めます。その時のシスター方のたくましさが、わたしたちの学校の原点にあることをいつも思い返したいものです。シスター方が長野に疎開していなかったら、長野清泉はここにはありません。もっと言えば、戦争という苦難の時がこの地に長野清泉を生んだとも言えます。

 さて、私は話を始めるにあたって、3つのお話には共通するものがあると言いました。皆さんはそれは何だと思いましたか。

 それは、自分にとってとてもつらいと思える出来事の中にも「希望」は生まれる、ということです。もしかしたら、つらい時だからこそ、希望は生まれるのかもしれません。最初にお話しした倉本聰さんは逃げて行った北海道で、自分の生き方を見つけます。次にお話しした山浦先生は、いじめられた経験から大きな夢を持ちます。そして、本校を創ったシスター方は、戦争に翻弄されながらも、その中で疎開先に学校を作るという大胆な希望を持ちます。

 パウロは「ローマの信徒への手紙」の5章で次のように書いています。
 「そればかりではなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」

 もう一度、読みます。
 「そればかりではなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」

 これから皆さんの歩む人生において、苦しい時、困難な時がきっと訪れることでしょう。しかし、その苦しい時にこそ希望は生まれてくるということを是非、心にとめてほしいと思います。なぜなら、皆さんは、苦しい時に生まれた希望が形となったこの長野清泉という学校で学んだのですから。

 以上を、式辞と致します。

(3月4日、高校卒業式式辞。)

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